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Small-Scale Experimental Machine ( リダイレクト:Manchester Small-Scale Experimental Machine ) : ウィキペディア日本語版
Manchester Small-Scale Experimental Machine[まんちぇすたー すもーるすけーる いくすぺりめんたる ましーん]

Manchester Small-Scale Experimental Machine (マンチェスター・スモールスケール・イクスペリメンタル・マシーン、SSEM) は、世界初のプログラム内蔵コンピュータ。愛称は ''Baby''。マンチェスター大学フレデリック・C・ウィリアムストム・キルバーン、Geoff Tootill らが製作し、1948年6月21日に最初のプログラムが動作した。
このマシンは実用的なコンピュータを目指したものではなく、初期のコンピュータ用メモリであるウィリアムス管の評価用に設計されたものである。当時としては「小型で基本的」なものとして設計されたが、現代の電子式コンピュータにある基本要素は全て備えた実働する世界初のコンピュータであった〔。SSEMによりその設計の実現可能性が示されると、同大学では、すぐさまさらに実用的なコンピュータ Manchester Mark I を開発するプロジェクトを開始した。Mark I は、世界初の商用汎用コンピュータ Ferranti Mark 1 のプロトタイプとなった。
SSEMはワード長が32ビットで、メモリ容量は32ワードだった。最も単純化したプログラム内蔵式コンピュータとして設計されたため、ハードウェアで実装した算術演算は減算正負の反転だけだった。他の算術演算はソフトウェアで実装した。最初にこのマシン向けに書かれた3つのプログラムのうちの1つは、218 (262,144) の最大の真の約数を求めるものだった。これは 218 − 1 から小さくなる方向に整数をひとつずつ調べていく時間のかかるプログラム(除算を持たないので、減算を繰り返し行う)で、それによってマシンの信頼性の試験も兼ねていた。このプログラムは17個の命令で構成され、正しい答えである 131,072 に到達するまでに52分かかった。その間にSSEMは命令を350万回実行したことになる(すなわち、実質的なCPU速度は1.1kIPS)。
== 背景 ==

プログラム制御式コンピュータの世界初の設計はチャールズ・バベッジ解析機関で、1830年代のことである。約1世紀後の1936年、数学者アラン・チューリングは後にチューリングマシンと呼ばれるようになる概念を発表した。これは、機械的な計算の限界を考えるための理論上の概念だった。チューリングは実際のマシンを想定したわけではなく、テープに記された命令に従ってテープ上のシンボルの読み書きなどの操作を行う人を "computer" と呼んだ。チューリングは、数学の問題を解くアルゴリズムを書ける場合、チューリングマシンでそれを実行できることを証明した。
コンラート・ツーゼZ3は、世界初のプログラム可能な完全自動式コンピュータで、二進デジタルロジックで構成されていた。ただし、チューリングマシンに存在する条件分岐の機能がなかった。1941年5月12日、ベルリンの ''Deutsche Versuchsanstalt für Luftfahrt''(ドイツ航空研究所)の観衆の前でデモンストレーションを成功させた。Z3は外部のテープにプログラムを格納していたし、電子式というよりも電気機械式だった。1943年のColossusは世界初の電子式計算装置だが、暗号解読専用であり、汎用の機械とは言えない。
1946年のENIACは、電子式で汎用という意味で、世界初である。条件分岐も可能でチューリング完全であり、幅広い問題を解けるようプログラム可能である。しかし、そのプログラムはメモリ上に格納されるわけではなく、パッチコードやスイッチの状態で保持されていた。そのためプログラムを入れ替えるには数日を要した。チューリングやコンラート・ツーゼといった研究者もメモリをデータとプログラムの両方を格納するのに使うという考え方を研究していたが、現代のコンピュータのほとんどで使われているコンピュータ・アーキテクチャを定義したとして広く知られているのは、数学者のジョン・フォン・ノイマンである。

ノイマン型コンピュータの構築は、プログラムの格納に適したメモリデバイスを用意できるかどうかにかかっていた。第二次世界大戦時、レーダー信号の散乱を除去するという問題に対処しようとしていた研究者らが遅延線装置を開発し、その最初の応用がジョン・エッカートの開発した水銀遅延線であった。レーダー発信機は一定周期で短いパルスの形で電波を放出し、その反射をCRT画面に表示する。ここで興味があるのは動く標的だけであるため、静止した物体からの反射は除去するのが望ましい。このフィルタリングは、1つ前のパルスの反射と現在の反射を比較し、変化していない部分を除去すればよく、それによって動く物体のイメージだけが信号に残る。前に受信したパルスを比較のために蓄えておくために、遅延線という方式が考案された。
1945年10月、チューリングはイギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務するようになった。当時の軍需省内の科学者らはイギリス国内で機械による計算をすすめる国立数学研究所が必要だと結論付け〔Lavington (1980), Chapter 5: "ACE, the 'British National Computer'".〕、NPLに数学部門が設置された。1946年2月19日、アラン・チューリングは電子式プログラム内蔵型コンピュータの設計に関する論文を提出し、それが後に Automatic Computing Engine (ACE) と呼ばれるようになった〔。これは、第二次世界大戦終結後の数年間に始まったいくつかのプログラム内蔵型コンピュータ開発プロジェクトの1つである。ほぼ同じ頃、ペンシルベニア大学電気工学科ではEDVACケンブリッジ大学数学研究所ではEDSACを開発しようとしていた〔。
NPLにはACEのようなマシンを構築した経験がないため、英国郵便本局研究所のトミー・フラワーズにコンタクトをとった。フラワーズは世界初のプログラム可能電子計算機 Colossus の設計者で、多忙だったためACEプロジェクトに関わることができなかったが、彼のチームはACE用の水銀遅延線をいくつか製作した〔。他にも通信研究所 (TRE) やケンブリッジ大学数学研究所のモーリス・ウィルクスにも支援要請があった〔。
NPLを所管する政府機関は、TREに製作を一任することを決定し、ACEに最高優先度をつけた〔。NPLの決定を受けて1946年11月22日、TREの物理学部門の監督者が訪問し、それにはTREのフレデリック・C・ウィリアムスと A. M. Uttley も同行した〔。ウィリアムスは遅延線への代案として、CRT記憶装置のレーダーでの応用を研究していたTREの開発グループを紹介した。ウィリアムスは既にマンチェスター大学の教授就任が決まっており、回路技術者のほとんどは原子力部門へ移籍されるところだった〔。TREは、一部の技術者をウィリアムスと共に大学に移すこと、そして TRE で Uttley の配下に一部技術者を移すことに合意した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Manchester Small-Scale Experimental Machine 」があります。




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